ここでは、安倍晴明について、調べてみました。
伝説の陰陽師 安倍晴明とは?
安倍晴明は、平安時代の陰陽師で天文博士。
明治時代初期まで、朝廷の公的な学問とされていた陰陽道を伝えた土御門家の祖です。
921年(延喜21年)に生まれ、 1005年10月31日(寛弘2年9月26日))に亡くなっています。
83歳(84歳)に亡くなったとすれば、当時の平均平均寿命に比べると、かなりの長寿ですね。
安倍晴明は、下級貴族 安倍益材(あべの・ますき)の子として摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれました。
幼少の頃については確かな記録はありませんが、当時、陰陽師として有名だった賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、陰陽師としてのキャリアをスタートさせました。
陰陽道とは?
「超常的な特殊能力を駆使した秘術」
と思うかもしれません。
現代的にいえば、まじないや占い、占星術などの疑似天文に近いものになります。
それらは「不思議な領域」というより、その知識がそのまま生活全般や農耕、漁業などに直結する、当時の最先端科学でした。
ただ、後代になって陰陽道が次第に民間へ広がりを見せるとともに、根拠を喪失しながら形骸化し、迷信化していったのも事実。
そうした過程の中で、安倍晴明は次第に「神」として崇められるようになっていきました。
安倍晴明の陰陽師としての実力は?
安倍晴明の陰陽師としての実力はどれほどだったのでしょうか?
「大鏡」や「今昔物語集」、「宇治拾遺物語」をはじめとする多くの文献に登場することから、一流の陰陽師として、当時の帝や貴族から重用されたことが伺えます。
ちなみに学生(がくしょう)だった安倍晴明が、村上天皇の依頼で吉凶を占ったという記述も残されています。
その後、天文博士に任ぜられた晴明公は、皇太子時代の第65代・花山天皇や第66代・一条天皇、藤原道長とも深く関わりのあったことが道長の日記「御堂関白記」からも分かります。
晴明の死後、その能力を惜しんだ一条天皇の勅により、一条戻橋のそばにあった屋敷跡に晴明神社が創建されました。
また江戸時代の歌舞伎「蘆屋道満大内鑑」などによって次第に伝説化されていきました。
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